北国街道 海野宿とはAbout Unnojuku
静けさと今風の生活感が同居する海野宿
静けさと今風の生活感が同居する海野宿
江戸時代の旅籠屋造りや茅葺き屋根の建物と、明治以降蚕室造りの建物とが調和した伝統的な家並が魅力です。
道の中央を流れる用水。その両側に立ち並ぶ格子戸の美しい家並みは、歴史のふる里をを想わせる静かな佇まいを感じさせてくれます。
海野宿の歴史
海野宿の歴史は古く、寛永二年(1625)に北国街道の宿駅として開設されました。
北国街道は追分から小諸を経て海野、上田を通って善光寺から越後に入り直江津に至る延長約140kmにおよぶ日本海側と太平洋側を結ぶ重要な街道でした。
加賀の前田家をはじめとして北陸諸大名が参勤交代で通った道であり、江戸との交通も盛んで善光寺への参詣客も多く当時の海野宿は相当のにぎわいを呈していたと言われています。
江戸時代末期から農家の副業であった養蚕と蚕種の製造がこの地域でも盛んに行われていました。明治に入り政府の殖産興業政策に共鳴した矢島行康(1836~95)は本海野養蚕近代化の先駆者として郷土に養蚕を広めました。
宿場時代からの広い部屋は養蚕のために利用され、明治・大正の養蚕最盛期には総二階建ての蚕室造りの家屋が屋敷裏に建てられるようになりました。
昭和に入って養蚕業の衰退とともに不要になった蚕室造りの建物のいくつかは消えましたが当時の姿を残す数多くの建物が現在でも残されています。
重要伝統的建造物群保存地区選定への歩み
海野宿街並みの保存について地元の関心が高まり保存活動が始められたのは昭和55年に地元本海野区で発足した海野宿研究会がきっかけでした。
その後昭和60年の海野宿保存(国選定)について本海野区民への賛否意見調査を経て国選定の要望書を当時の東部町へ提出しました。翌年には建設省から「日本の道百選」の選定を受けました。
その翌年昭和62年に「海野宿保存会」が発足し国から「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けました。翌昭和63年には「海野宿民族資料館」が開館、平成5年には道路環境整備事業も完了して保存と観光の両輪の基礎が出来上がったことになります。
伝統的建造物の特徴
海野宿の伝統的建造物は江戸時代から、明治・大正・昭和にいたるまでの長い年月の間に建築されたため時代ごとの特徴を持ちながら伝統的形式を維持しています。
選定当時の保存地区内の伝統的建造物は白鳥神社本殿に代表される社寺建造物、主屋、蚕室、土蔵など合計110棟でした。そのほとんどが現在も残っています。
茅葺の町屋
出梁造り
建造物
江戸時代の建造物は旅籠屋、長屋が残されていますが本陣・問屋の建物は失われて問屋門のみが残っています。茅葺の町屋は現在は茅の上を鉄板や銅板で覆っています。旅籠屋の特徴は「出梁造り」と言って二階の方が一階より張り出して作られています。この突き出した梁に美しい模様が刻まれた建物もあります。
海野格子
海野宿には格子戸がはまった家が続いていますが、一階の格子戸は明治以降に作られたものが大半です。二階の格子は出格子となっており、長短二本ずつが交互に組み合わされて海野宿特有の美しい模様を織りなしています。これらは江戸時代の物で「海野格子」と呼ばれています。
小屋根
小屋根
小屋根
明治時代に入ると製糸業が盛んになり長野県でもここ小県(ちいさがた)地方は生糸の景気で活況を帯びていました。それにともない海野宿は宿場の街から養蚕の村へと変わっていき、蚕の飼育に必要な保温のために室内で火を焚くことが行われました。そのために小屋根(気抜き)と呼ばれる煙出し用の気抜き窓が大屋根の上に取り付けられました。
本卯建(ほんうだつ)
軒卯建(のきうだつ)
袖卯建(そでうだつ)
卯建(うだつ)
海野宿に見られる「卯建(うだつ)」のうち、建物の両側にある妻壁を屋根より一段高く上げて小屋根を付けた「本卯建(ほんうだつ)」と二階本屋根の軒下に三角形の壁を造る「軒卯建(のきうだつ)」の2種類は江戸時代に造られたものです。また明治時代に入ると二階と一階の屋根の間に意匠を凝らした卯建が造られるようになってきました。これを「袖卯建(そでうだつ)」と言います。
「卯建」には防火壁の役割があるとされ「火返し」とも呼ばれていますが、江戸時代の卯建は防火の機能が弱く、防火壁と言うよりは家の格式を誇示する意味合いが強いと考えられています。
いずれにしろ「卯建」は裕福な家でなければできるものではなく、「うだつがあがらぬ」の語源とも言われています。
海野宿に伝わるその他の特徴
用水堰
洗い場
用水堰
街道中央に流れる用水堰は江戸時代から変わらない位置で残され、住民から「表の川」と呼ばれています。用水堰には石橋が架けられていて、それぞれの家用の洗い場があります。江戸時代には馬に水を飲ませたり、旅人は足を洗ったのかもしれません。
とうろうまわし
江戸時代の天明4年海野宿で宿場の西半分の58戸が焼失した大火がありました。それ以降大火に遭った家々で、当時防火に霊験あらたかであると言われた奥秩父の三峯神社に参詣する三峯講を作り代参講が行われていました。代参講がなくなってからも「とうろうまわし」としてとうろうに火をともして毎晩一軒づつまわす風習が現在も続いています。
屋号
宿場の家々はそれぞれが「屋号」をもち看板を掲げています。現在でも屋号で呼び合う住人が少なくありません。
白鳥神社
白鳥神社は平安・鎌倉時代の豪族であった海野氏の氏神であり、その後は海野宿住人の産土神として崇敬を集めてきました。
本殿
拝殿
本殿
本殿は寛政三年(1791)建立の流れ造りで拝殿は明治14年に建立されています。
石造り鳥居
神木の欅の木
境内
境内には道祖神、二基の石造り鳥居などの文化遺産が残されています。また神木の欅の木は樹齢700年を超えると言われています。
大幟(おおのぼり)
浦安の舞
例祭
毎年4月12日(現在は直近の日曜日)には例祭が行われ、街道には10本の大幟(おおのぼり)が立ち並び、舞姫による浦安の舞を奉納しています。
年末には大鳥居のしめ縄を地域住民(氏子)が手作りして交換する行事も受け継がれています。
媒地蔵尊
地蔵寺は文祿年間(1592年頃)海野宿の一角に小庵が建立され、その後檀家の増加に伴って元祿四年(1691)現在の地に移って青竜山地蔵寺と改称されました。昭和26年の火災で焼失し上田市の願行寺へ合併されました。
媒地蔵尊
青竜山地蔵寺・媒地蔵尊
地蔵寺の本尊は媒地蔵尊で、あらゆる人を救ってくれるという伝えから、特に女性に人気があったと言われています。
平成7年海野宿内に新たに媒地蔵尊が安置され地元住民と観光客の参拝の対象となっています。
保存への想い
海野宿は宿場開設以来すで390年余の長い年月が過ぎています。現在も私たちの目の前に残るこの古い街並みは、ここに住む人たちが長い歴史の中で大事に守り育ててきた貴重な文化財です。
先人たちが残してくれたかけがえのない文化遺産を、現在を生きる私たちが受け継ぎ後世の人たちに確実に伝えて行かなければならないとの想いで、これまで「海野宿保存会」が中心となって保存事業を進めてきました。
それに加えて今後は保存・観光・生活のバランスがとれた地域の活性化を図ることが必要との認識から本年(平成30年)NPO法人「海野宿トラスト」設立につながりました。